◆来訪【緑の会の仲間達】◆

伊那山地を望む
伊那山地を望む(2010.04.11 12:32)
■緑の会

 「緑の会」は人生雑誌「人生手帖」の読者の集まりです。
 当時流行った文化サークルの一つで青春時代の思い出がぎっしりと詰まっています。

 『心』(しん)と『秋』(あき)はここで知り合いました。

 仲間達とはかれこれ40年来の付き合いになりますが、今でも会えば「何々ちゃん」と呼び合う間柄なんですよ。

高遠城址公園にて高遠城址公園にて
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■1日目:ぼた雪とお花見 【2010.04.17】

 遠路はるばる(茨城県から)車で来訪。水海道(みつかいどう)緑の会の仲間5人(男3人、女2人)です。
 前日の夕から今朝にかけて季節外れの雪が降り、「長谷の家」でも5cmほど積りました。中央道の一部の区間はタイヤチェーンを付けて走ったとのことで、本当にお疲れさまでした。

 高遠城址公園ではタカトウコヒガンザクラの枝が大量に折れているのには驚きました。見ごろを迎え花を一杯に付けていたこともあり突然のぼた雪の重み耐えられなかったようです。
 「こんなことは初めて」と桜守の方は場内の整理に忙しそうでした。後で新聞で知ったのですが「4月半ばを過ぎての1cm以上の積雪は41年ぶり」とのこと。
 午後からは、青空が広がり雪をかぶった中央アルプスを背景に眺める赤みを帯びた可憐な花びらはいっそう豪華に見えました。
 「天下第一の桜」ここにあり、です。

 花見の後は「長谷の家」にお招きしました。南アルプス村「パン屋」の名物クロワッサンをぱくつきコーヒーをすすりながら青春時代の思い出話で盛り上がりました。

透き通る青空を背景に透き通る青空を背景に 青春時代の思い出が...青春時代の思い出が...
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■2日目:ソースかつ丼 【2010.04.18】

 宿泊は「仙流荘」でした。

 昨晩は、温泉につかり夕食後は久しぶりに腹を割ってのお話ができました。こんな風にして話し合うのはほんと、30〜40年ぶりのような気がします。
 鋸山(のこぎりやま、2,607m)から差す朝日を眺めながらの朝風呂は格別でした。朝食の前に宿の南側を流れる黒川の河原を散歩しました。コヒガンザクラはここでも満開です。

 「仙流荘」をチェックアウトした後はふたたび「長谷の家」に寄り、しばしコーヒータイム。

 昼食は、『心』と『秋』お勧めの駒ヶ根名物「ソースかつ丼」を食べに行きました。「うまい!」と一口食べて大食らいのMくんがうなりました。そう、とにかく美味いんですよ、ここのは。えっ、お店の名前?「いな垣」です。

 光前寺へ行く途中の水仙畑を案内し、そこでお別れしました。近いうちにまた会おうと約束して...。

仙流荘のコヒガンザクラ仙流荘のコヒガンザクラ 南アルプスをバックに南アルプスをバックに
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 *** 『緑の会』 と 『人生手帖』 ***
 ◆『緑の会』は働く青年のサークルとして昭和26年(1951年)に結成され、翌年機関誌『人生手帖』が創刊されました。結成、創刊のいずれも寺島文夫(1910年‐1975年)によるものです。
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 ◆『人生手帖」は読者からの投稿が紙面のほとんどで、十代の若者たちが中心の人生記録雑誌として当時の世相の流れに乗り、昭和31年(1956年)には7万部にまで達しました。『緑の会』支部も最盛期は1,000を超えました。
 ◆その後、時代の波が一億総中流化へと進むにつれ、苦労体験記と励ましに基盤を置いた若者たちのつながりは次第に薄れていきました。『人生手帖』の発行部数も昭和37年(1962年)頃には2〜3万部にまで落ちました。
 ◆昭和49年(1974年)、『人生手帖』は『健康ファミリー』となり自然食を中心とした雑誌に変遷しました。『緑の会』支部数は200を切り、活動の中心も「人生いかに生きるべきか」から「その根源である健康体、すなわち自然食の追及」へと移り変わっていきました。豊かになり始めた若者の求めるものが大きく変化してきたのです。
 ◆こうして、人生雑誌『人生手帖』の読者を中心とした文化サークル『緑の会』は、一時代の使命を終え次第に縮小していきました。

 参考文献:『「つきあい」の戦後史―サークル・ネットワークの拓く地平』  天野正子著  吉川弘文館  
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